U君のお父さん
瀬戸は僕の地元で、自宅を壊してその跡地にクリニックを立てた。そのため近所の知り合いから、親戚から、地元の友人、知人、そのご家族など、知っている人達が大勢来院する。小学校時代に同級生であった友達のU君のお父さんも、高血圧でうちに通院している患者さんの一人だ。そのお父さんは音楽家で、小学生の頃U君の家に遊びに行くと素敵な楽器があり、部屋の壁は小さな丸い穴がブツブツとあいていて、いかにも音楽部屋といった素敵な空間であった。その当時、僕は鼓笛隊で金管楽器のユーフォニウムを吹いていた。U君のお父さんは指揮者で、トロンボニストでもあったので、金管のテクニックを教えてもらったことがあり、少し学校の先生に近い存在で尊敬していた。とても気さくな方で、外来ではいつも冗談を言い、数少ない元気をもらえる患者さんの一人だ。瀬戸にも年に1回癌検診があり、時期が来るとU君のお父さんに検診を勧めていた。ところが、その度楽しい会話でいつの間にかはぐらかされてしまっていた。何年かの間、毎年検診を受けるように勧めていたが、毎年毎年、勧めるのも気が引けるようになり、勧めるのすら辞めてしまった。開業して6年が過ぎた頃、「先生、頭がボーッとする」と相談を受けた。普段、楽しい話ししかしない患者が何かを訴えるとき、かなりの確率で異常がある。確かに血圧はやや低めに推移していた。降圧剤を微調整し経過を見た。その次の外来で「便に血が混じるわ」と告げられた。消化管出血からの貧血が起っていることが容易に想像された。しかも癌検診を受けていない。精査のためすぐに高次医療機関にコンサルトした。やはり上行結腸に進行癌を認めた。「だからあれだけ検診を勧めたのに」と悔しく思った。幸い手術は成功したが、その後も抗癌剤を服用することになった。もっと強く勧めれば良かったと後ろめたく思いながら、ご本人が検診を受けることに消極的であったことを言い訳するかのように今までの経緯をU君に説明した。1年後、頭痛が起った。癌治療を行なっていた医療機関に受診し、今度は頭部の骨転移が見つかってしまった。為す術が無くなり、U君から訪問診療医になって欲しいと言われた。5月末。退院カンファレンスに出席し、病状が深刻であることを聞かされた。僕にできることはもう痛みを和らげることくらいしかなかった。退院後初めての訪問。以前より古くはなっていたが、当時のままの素敵な音楽部屋があった。家の間取りが遠い記憶から蘇る。お父さんはその部屋とは別の部屋のベッドで寝ていた。言葉は発せられなかったが、僕が一生懸命語りかけると、うなずき時折笑顔を見せてくれた。安心させようとしたのに、反対にお父さんが僕の不安を取り除いてくれた。強い痛みが有るに決まっているのに微笑んでくれている。麻薬は痛みを取り除いてくれる最高の治療薬だが、一歩間違えれば呼吸を止めてしまう。弱々しい呼吸の患者にはその微調整が難しい。残念ながら日々お父さんの疼痛は増していき、麻薬の量を増やさざるを得なかった。これ以上の増量は危険であった。それでも痛みを取って上げたかった。更に増量した翌日、お父さんは逝ってしまった。退院して2週間後のことだった。指揮者の白い制服に着替え終えたお父さんは、とても眩しく凛々しかった。僕は医師の役目を終え、やっと子供に戻ることができ、最後にU君と一緒に涙を流した。